御嶽山 金櫻神社
御嶽昇仙峡の歴史を語る上で、欠かすことができないのが昇仙峡の奥にある「金櫻神社(かなざくらじんじゃ)」です。まずは金櫻神社の歴史についてご紹介させていただきます。
第10代崇神天皇の御代(約2千年前)、各地に疾病が蔓延し悲惨をきわめた折、崇神天皇は諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をなさいました。
甲斐の国においては、金櫻神社より北方20km、標高2,595メートルの金峰山(きんぷさん)山頂に医薬、禁厭の守護神を鎮祭されました。こちらに金櫻神社の本宮があります。全国から崇敬者が集り、山伏たちが修験道に励む山岳信仰の地となりました。御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。その後、第12代景行天皇の御代、日本武命東国御巡行の際には、国士開発のため、須佐之男命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)を、あわせ祀られました。
金櫻神社(里宮)が開かれたのは、今からさかのぼる約1,500余年前、第21代雄略天皇の御代のことです。第42代文武天皇の御代には、さらに大和の国の金峰山より魔障を除く仏、蔵王権現が祀られ、神仏あわせもつ日本三御嶽、三大霊場として広く知られ、隆盛をきわめました。百余名の神社、僧侶が奉仕し、東国の名社と慕われ、信者は関東全域にとどまらず、遠く越後、佐渡、信濃、駿河の各地におよび、春秋2回の拝札はことに賑わいを見せました。領主、武将の進行もあつく、寄進された室町、鎌倉期よりの社殿をはじめとする幾多の宝物は、時代の文化の粋を集めて壮観でした。
明治の御代を迎え、金櫻神社は、神仏分離によって神社として独立、大正5年(1916年)には県社に昇格。広範な社有林と昇仙峡の清流にかこまれた神域は、幾世隔てた今日も変わらず清新であり、全国から集まる人々の信仰の地となっています。
水晶発祥の地 御嶽昇仙峡
前述の金櫻神社では、この地で発掘された水晶を研磨した「火の玉・水の玉」が御神宝となっています。なぜ水晶が御神宝となり、御嶽昇仙峡が水晶発祥の地となったのか、その歴史をご紹介させていただきます。
金櫻神社で水晶研磨技術が発展する以前、最初の石の加工品は縄文石器時代の「石やじり」であったといわれています。当時「やじり」のほとんどは「黒曜石」と呼ばれる石で作られたものでした。しかし山梨県では水晶がたくさん採れたので、やじりに水晶を用いたのです。
その後水晶は、自然の形のまま床の間などの置物にすることが主流でしたが、これを研磨し玉造り(水晶玉等への加工)する技術を京都の玉屋の「弥助(やすけ)」が金櫻神社の神官に教えました。これが「水晶発祥の地」としてのはじまりです。天保5年(1834年)その頃、水晶の採掘は禁止されており、水晶を手に入れるためには雨などで自然に水晶が露出するのを待たなければいけませんでした。弥助は必要な水晶が得られるまでの待ち時間に金櫻神社の神官たちに水晶の磨き方を教えました。弥助は包丁や鰍の刃先などあり合わせの道具を用いて磨いたそうです。
その次に水晶の買付にきた際には、研磨剤である金剛砂を持参し、本格的に水晶の磨き方を教えたといわれています。現在、金櫻神社には金峰山の水晶を加工させたと伝えられる「火の玉・水の玉」の銘玉が御神宝として今も大切に納められています。
江戸末期、金櫻神社より水晶研磨を生業とする者が現われ、鉱山採掘許可による原石多量化と共に水晶研磨は盛んになり、商いの便利な甲府に工場を建て、御岳から甲府へと水晶興業産地は移り、水晶原石を掘り出す人々、研磨する人々、そして商売を広げる人々と、山梨の水晶産地は形成されていきました。
昇仙峡にご来訪いただくと、たくさんの水晶や天然石のお店が並んでいますが、これらのお店は水晶発祥の地・宝石研磨技術の発展の地に由来するものです。
昇仙峡 開拓の祖「長田円右衛門」
玉屋の弥助が水晶技術を金櫻神社に伝授していた同じ頃、江戸時代後期の農民であった「長田円右衛門(おさだえんえもん)」は、甲斐猪狩村(いかりむら)の名主で叔父の長田勇右衛門とともに荒川渓谷沿いの甲府と猪狩村間の道路(御岳新道)の開拓を計画し、村人の協力を得て天保5年(1834年)着工、天保14年(1843年)に完成させました。
新道が完成したことにより、今までに見ることの出来なかった御嶽昇仙峡の渓谷美や仙娥滝が世に知られることになり、山梨県の観光名所としての御嶽昇仙峡の礎を築きました。
円右衛門は新道が完成した後も「お助け小屋」と呼ばれた通行人の休み所をもうけ、お茶をふるまったり、わらじを売ったりして、安政3年(1857年)6月9日に死去するまで、御嶽昇仙峡の開発に生涯を捧げました。円右衛門は家族や家業よりも御嶽新道の開発と発展に心血を注ぎ、その生活は決して楽ではなかったと伝えられています。
昇仙峡遊歩道の途中にある「長田円右衛門の碑」の碑文には、このように記されています。
「手足にヒビ アカギレを切らしながら、山を切り谷を割るなど苦難の末、始めて道を開いた。顔は醜く鬼のようではあるが心は菩薩のようである。」
長田円右衛門が切り開いた「昇仙峡」。この名前は明治20年以降に呼ばれ始め、昭和の初期に定着しました。諸説ありますが、一節には学者が渓谷美を「仙岳に昇る思い」と絶賛したことが由来と言われています。